人生最後の日を考える ~「あなたは何をするか」~

2023年8月20日

もしも、今日人生最後の一日だとしたらあなたは何をするだろうか?

これは思考実験的なことであり、自由に自分の考えを作るのが目的です。

本記事は…

・自分の人生を見つめなおしたい方

・自分が何を望んでいるのかわからない方

に自分の内面と向き合って、自分の人生を見つめなおす機会を設けることです

本記事に書いてあることは現在の私が考えていることで、執筆後はもしかしたら変化しているかもしれません。

その位、自分の望みは変化しやすいものなので、自由に考えてみましょう。

誰もに訪れる人生最後の日に私たちは何をするのかを考えることは人生において悔いをなくし、自分が本質的に求めていることを立ち返る良い機会になると思います。

もし、今日が最後の一日だと起きた瞬間に意識されたとする。この意識は連続することなく、本当に今日一日で全てが終わるとしたらあなたは何をするか。

今日一日をどう過ごすのかを書いてみましょう。

今の自分では出来ない等ではなく、自分がこういう一日を過ごすのだと思って書いてください。

おすすめのやり方はジャーナリングと同じく、手を止めずに書き続けることです。

頭で考えてしまうと中々書き出せない方には特におすすめです。

日頃から悩みがちな方はこちらの記事もよろしければご参考ください。

https://ty-service.net/2021/09/12/nayami_positive/

ルールその1.
前提として普段の行動の中で唐突に死が訪れたものとすること。例えば事前に今日死ぬことを知っていたわけではなくて、唐突に死が訪れたものとしての検証するため、準備等は無く、起床時間もいつも通り。

私の場合

その場合で考えると私は普段5時に起床するので、朝5時からその日に何をするのかを考えるとする。

私は5時に起きて自分の死を知ったときにまず考えるのはこれまでお世話になった人や関わった人たちに感謝の言葉を伝えることだろう。

家族であれば電話をし、それ以外の特別思い入れの強い人以外はメールでもラインでもいいので、感謝のメッセージを送る。

それから最後の朝食を海辺のカフェでとる。朝食を摂りながら、これまでの人生を振り返る。

朝食が終わったら、振り返った人生をまとめて、お昼ごろまでに自分の伝記を作る。

お昼はカレーライスを食べて軽く仮眠をする。

その後は大好きなお菓子を食べながら、景色の良い場所で創作活動にふける。

小説を書いてもよいし、絵を描いてもよいし、とにかく何か作品を残したい。

それを夜まで行う。

夕飯は大好きなフライドポテトとオムライスを食べる。

それから、温泉に行ってゆっくりと湯につかりながら、再度これまでのことを振り返る。

家に帰ってきたら、これまでの人生の総括と今日一日を振り返った日記を残す。

その後はお菓子を食べながら、アニメを見て、ゲームをやって過ごす。

そして、日付をまたぐ30分ほど前に、あらゆるものに感謝の言葉を述べて、そのまま眠りについて最後を迎える。

書いていて思うけれど、中々良い一日なのではないかと思う。

こうして振り返ると最後の一日は自分のことをまとめて人生の総括、つまりは振り返りを行う。これは日常的に内省をすることを求めていることともいえる。

人生最後の日でさえも、自分を省みることをするのであれば、間違いなく自分を振り返ることは日常的にやったほうが良いということになる。

他には創作をして作品を残したいと考える。

これは自分がやったことを何か形として、この世の中に残したいという思いがある。それは役に立つものではなく、自分が生きた証として、作品を残したいのだ。教育や制度などではなくて、物質的な形として、後世にも残るものが良いのかもしれない。

他には景色の良い所というように自分の置かれた環境に重きを置いていることがわかる。つまり日ごろから自分の満足できる景観や静けさといったものが私には必要なのだ。

それが理由か私はインテリアや住居といったものにこだわりがある。空間を過ごしやすいように変えること、自分の身の回りは綺麗に整頓されて整えられていること。それが満たされていないと非常に不愉快であるし、生活を満足して送ることはできない。アーティストやクリエイティブなことをする人は身の回りに多くのインスピレーションを感じるものを置くというけれど、私は身の回りに本当に自分が興味のあるもの以外は置きたいとは思わない。それとものを収集するというのもまったく興味がない。できることなら、物は最小限で自分の身の回りは常にスッキリさせておきたい。これは自分に必要なものを明確にして、自分を惑わせずに自分に必要なことをやれるようにするためである。

故に私は自らの部屋に余分なものがあると気になるのである。例えば今部屋にプラモデルがあるが、本当に必要なものかは甚だ疑問である。置いていて気持ちがよくなるものでもないし、勿論ニューガンダムは大好きではあるが、何故か部屋に置いておきたくないのだ。それは部屋の中は常にスッキリとして、渾沌としていないことが必要だと考えるからだ。

何もない部屋はつまらないと感じるが、無駄なものがある部屋の方が非常に嫌だと感じる。この辺りはエッセンシャル思考が働いているのであろう。部屋に物が多いと思考がそれに引っ張られてしまう。本当にクリエイティブな人やアーティストは雑念となるものを部屋に置かないのではないかと思う。

食べ物に関してはどうだろう。朝食は何が食べたいか記載しなかったが何が食べたいだろうか?洋食と和食ならどちらを食べるだろうか?うむ、私は洋食が食べたいと思う。和食でもいいんだけど、スクランブルエッグとか食べたいなあと思う。和食はどちらかというとしょっぱいものがメインなので、洋食の方がいいという感じだろう。食事に関しては最後の日にカレーライスが食べられればかなり満足できる。後フライドポテトね。これも大好き。普段は全く食べないけど、ポテトは本当においしいと思う。

ではなぜ、日ごろから食べないかというとお米やポテトは作るのに手間と時間がかかる為である。料理はおいしく食べたいけれど、時間はかけたくないのだ。食事をすることにそれほど時間を掛けたくないということでもある。

そして、人生最後の日にあって、健康の問題は気にしなくてよくなると、カロリーや栄養面を無視したものを食べたくなる。お腹が苦しくなるほど食べたいとは思わないけれど、満足するまで自分の好物を求めたいという気持ちがあるだろう。沢山食べたいというよりは普段からは食べないので、期間限定的に楽しむ感覚に近い。つまり、私は日頃から好物を食べるというよりも、時折自分の好きなものをふんだんに食べる機会を持つことを望んでいるということだろう。

普段は何を意識しているかというと健康面が主だと思う。ミネラルやたんぱく質などをバランスよく摂取できているか、糖分や油分は取りすぎていないか?などを意識して食事をしている。つまり、普段からは健康面を気にしているということがわかる。

また、最後の夜に寝るというのはこれまでの人生通りに最後を迎えたいという思いでもある。まさに眠るように。これは人生最後の日は特別にしたくないという思いであるからだと思う。人生の最後が特別なのではなくて、毎日が特別なのである。仮に今そう感じていなくても、そうしたいと考えているのだ。この後の人生が無いからこそ考えてしまうものであると思うが、私にとって必要なのはそういうことなのだろうと思う。

いかがでしょうか?

最後の日となると、意外といつもやっていることとは違うことを考えた方が多いのではないでしょうか?

どうして自分がその行動をやろうと思ったのか、その行動は自分のどんな思いや価値観が関係しているのか、と言ったことを振り返ると、自分が何を求めているのか段々見えてくるかと思います。

ここで、私が振り返るときに意識しているポイントを共有させていただきます。

  • 自分がやりたいと思っていることか、それともやらないといけないと思っていることか
  • 自分の為にやろうと思っていることか、それとも誰かの為にやろうと思っていることか
  • この行動をとるのは自分がどんな人生を送りたいと望んでいると思うか

折角なら、自分のことを置く深くまで振り返ってみませんか?

ルールその2 
もしも、今日一日で命が終わるとしても自分の活動が次の自分に受け継がれるとしたら?

仮に自分の意識が日毎に途切れて、今日の自分の意識は完全に消滅するけれど、自分は存在し続ける場合に一日の行動は変化するでしょうか?

自分がやったことは次の自分に引き継がれる。ただし、主観としての自分はそこで死んでしまう。

少し複雑で難しそうですが、是非考えてみると面白いですよ。

私の場合

朝はどうするか?海の見える場所で洋食のモーニングを食べる。景色を楽しみながらこれまでの人生を振り返る。

それから遊園地に行って絶叫マシンに乗って堪能する。

お昼にこちらもカレーライスを食べる。

その後は思いっきり体を動かす。

夕食前に切り上げて、温泉に入る。

温泉から上がったら、夕食にオムライスとポテトを食べる。

その後はお菓子を食べながらゲームをやって過ごす。

そして、日付を跨ぐまでそのまま過ごす。

自分の意識としては途絶えるがこの後に自分が存在するとしたら私はここに上がっている予定のように何かを作ったり残したりしようとは思わないということである。

なぜならそれは次の自分がやってくれるだろうと考えてしまう。自分ではないが結局自分がやることに変わりはない。

この考え方からくる問題点としてはつまるところこれこそが先延ばしなのではないかということ。

後の自分がやる→1日後の自分がやるということ。

後がない、もう本当にこれで最後なのだと思うと自然とやらなくてはと思う。しかし、連続する意識が繋がっていないとはいえ、この後があると考えると私の場合はやらないようだ。

このことから私自身先延ばしにする癖があるということがわかる。それを防ぐ方法としてはよく言われる人生最後の一日であるかのように過ごすことが大切であるということ。

この先があるかどうかわからない以上、今日が最後と受け止めることは左程おかしなことではない。

いかがでしょうか?

振り返ってみたときに最初のルール1とは違い、自分の意識はないけれど、何か繋がるものがあると考えると行動は変わってくるのではないでしょうか?

もしも、ルール1と行動が変わらないと思っている方は、普段から自分の行動を誰かに伝えることや、例えつながらなくても悔いのない選択をすることを意識されているのかもしれませんね。

ルールその3 

自分の意識は連続するが前日に過ごした記憶が一切引き継がれない場合

これはいわゆる記憶のリセットで、連続した記憶は一切存在しない。その日を過ごしたら前日に何をしていたのかすっかり忘れてしまう。

前提として、自分は記憶を無くすことを自覚している。ある意味で毎日が人生最後の日となっている。その日に起きることは全然違うが、意識が引き継がれない以上、自分にとっての今日は間違いなく存在している。

この状態になったときに、さて自分は一体何をするでしょうか?

私の場合

これは凄く悩む。何故なら記憶がないので、そこで得た体験や経験は全て無に帰すということになる。例えば、ドライブをして美しい景色を堪能したとしても、その記憶がなければまた同じことをする可能性があること。

日記を残して、前日の自分が何をしたのか残したとしても、自分の中にその感動はなく、自分の体験として、経験として自分の中に残っているわけではないので、実感がわかない。実感がなければもう一度味わってみたいと思うのは不思議なことではないと思う。

それだけではなく、例えば何か目標があり、そのために前日行動していたとしよう。イラストレーターになりたくて、絵を描いていた。それを日記として、自分が読んだときに、果たして自分が今日も絵を描くかはわからない。

記憶がないということはつまるところ意識が前日の起きた瞬間と同じになるということである。

その状態になったときに自分は一体何をするだろうか?

朝起きたらランニングをして、帰ってきたらフルグラを食べながらコーヒーを飲む。

それから、カフェに行って読書をした後、短編小説を書く。

お昼はサラダとコーヒーで済ませて、軽く筋トレをして体を動かす。

その後景色の良い場所に行き、景色を楽しみながら絵を描く。

絵を描いたらブックカフェで本を読みながらコーヒーを楽しむ。

夕方はジムで筋トレとランニングをする。

その後家に帰り、夕飯はカレーを食べる。

カレーを食べたら、日記をつけて、ゲームをやって寝る。

こんな感じだろうか?人生の最後の一日というわけではないので、基本的には自分が普段やっていることに近いことをすることになると思う。

一日で記憶が途切れるので、旅行をしてみるというのも良いかなと考えたけれど、前日の旅行を覚えていないので、旅行は全編を通して不思議な体験になるだろうなと思う。

記憶は連続しなくても本を読むのだろうかと考えたけれど、それでも本は読みたくなるものだ。

やっぱり本を読みながら思索に耽るのが好きなのだろうと改めて思う。また、小まめに運動をしているのは私が運動が好きだからであるのと、運動をすることで、記憶は引き継がれなくても、体は鍛えられるからね。唯一次の日に繋げられるものかもしれない。

こうしてみると非常に平凡だ。特別なことは何もない。一般の平凡な一日を過ごして終わるのだ。

誰もがやらないようなことをやり遂げるとか、未知の世界に飛び込んでいくとか、そういうことをしない。

それは変化を起こしたくないということなのだろうか?いや、そうじゃない。自分が本当に大切なことに時間を使うためには自然とそうなってしまうのだろう。

記憶が無くなるのだから、承認欲求に縛られる必要がない。だって、覚えていないんだから。

そういう意味では新しいことに挑戦することはしやすいのかもしれない。

いかがでしょうか?

記憶が連続しないとなると、一体自分はどうするのでしょうか?

是非自分の行動を振り返ってみてください。

最後に…

自分がどんな行動をするのか書いてみて、新しい発見があったでしょうか?

それともいつもと変わらないことでしたでしょうか?

大切なことは自分の人生を悔いなく過ごすことだと思います。

私たち一人一人が自分の人生を悔いなく過ごすことによって、自分を満たして、周りを満たすことにもつながると私は考えています。

自分が充足すれば、その感情が周囲に伝わり、どんどんその影響が広がっていきます。

人生は永遠に続くようで、ついつい大切なことを先延ばしにしてしまいがちですが、人生の最期は誰にでもやってきます。

その最期に自分が心の底から生きていて良かったと思える人生を過ごせることを私自身も願っていますし、この記事を読んでくださった方がそうであるととても嬉しいです。

明日からの行動があなたにとって最高のものでありますように。

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