毎日が辛くて楽しくない「生きるって何だろう?」

2022年6月26日

生きるって何だろう?

私は生まれてからこの方自分のやりたいことや自分のなりたいことがわかりませんでした。

かといって、「目標」があるからそのために頑張ってきたということが全くありません。

人から認められる、ただそれだけを目的に生きてきました。

私は人と上手く付き合えないので、せめて実力や成果で認めてもらおうとしたのです。

しかし、そんな風に生きていると周りの目ばかり気にして、生きるようになります。

成功することだけが唯一の正解で失敗することは悪だと思ってしまう。

そんなことがあり、今でも苦しみながら生きています。

なぜ人はこんなにも不自由に生きてしまうのでしょうか?

私たちは何のために生きているのでしょうか?

人から気に入られるため?成功するため?もてはやされるため?

どれもピンときません。

思うことはあっても、それが生きる目的にはなりません。

それでは私が生きる目的は何でしょうか?

ずっとそれを探してきました。

いつも苦しくて、この苦しさから逃れるためには自分の生きる目的を探さなければならないと思っていました。

指針のないまま進むことほど苦しいことはありません。

様々な自己啓発本を読みました。

しかし、自己啓発本を読むほどわからなくなるのです。

方法論ばかりで全部試しましたが、どれもうまくいかないのです。

科学的に根拠があるものも試しました。

以前よりは見えてきたものの、目的ははっきりしませんでした。

生きづらい本当の理由・・・

理由は何となくわかっていました。

私は「選択」することを恐れていたのです。

人生の目的を決めてしまったら、そこに向かわなければならないと思っていました。

もしも、その道が自分にとって苦しい道だったら?自分に合っていない道だったらと思うと決断ができないのです。

しかし、自分にとって本当に大切なことは何でしょうか?

どうして私は人から認められたかったのでしょうか?

自分の欲求の根っこを辿ると見えてくるものがあります。

私は幼少の頃、親が精神病ということもあり、中々甘えることができませんでした。

加えて家庭環境も崩壊寸前で甘えるとかそんな環境ではありませんでした。

自分の心を守りながら、家族を繋ぎとめようと必死でした。

そんな状態が続いたので、私は親から愛されて育ったという感覚がありません。

それどころか、自分はいらない子なのではないかと思うような体験ばかりでした。

その為か、人との関係は傷づくことばかりで、怖いものだと思ってしまったのです。

それがもとで、人に心から許すことはできません。

一歩外にいないと安心できないのです。

けれど人間は一人では生きていくことができません。

誰かと繋がりを持たなければ生きていくことはできないのです。

家の中で一人きりでいると不安になるのです。

だから人から気に入られるために様々なことをしました。

人を笑わせるために極端に表現したり、嘘をついて気をひいたり、人を貶めて自分に意識を向かわせたり、人に合わせて媚を売ったりとあらゆることをしたのです。

結果私は自分の意志というものを失いました。

そして、友人も失いました。

人を更に信じることができなくなりました。

そんな自分を変えようとずっと努力を繰り返してきました。

苦しいことや苦手なことでも、人に大切だと言われればそれを実践し、継続してきました。

けれど、中々うまくいきません。

そんな自分に嫌悪感を感じ、どうしてこんなこともできないのかと自分を責め続けました。

「こんなこともできないで、よくも表を堂々と歩けるな」、「お前のような役立たずのくずは早く死んだ方が世のためだよ」・・・こんなことをほとんど毎日自分に何年も言い続けて、自分の生を疑うようになりました。

しかし、本心は自分を否定し、傷つけることを望んでなどいません。

本当は日々少しずつでも成長していく自分を感じながら、周りと一緒に助け合って生きていきたいだけなのです。

自分を傷つけて貶めて地獄の苦しみを味わうことが過去の行いへの贖罪と、自分が生まれてきたことへの償いなのだと信じて、心の声を握りつぶして、ずっと生きてきました。

人の目を気にして、心の声も握りつぶした結果、苦しみだけが人生を支配するようになり、望みが分からなくなってしまいました。

しかし、心というのはなかなか変わりません。

世間が言う正しさや社会性に納得がいかないことには機敏に反応します。

自分の心が抑圧によって限界に達していたこともあり、組織に入っても納得のいかないことはやらなかったり、反抗したりしていました。

そして、その結果組織や集団になじめずに苦しみ続けています。

元々集団行動が大の苦手で、周りに合わせて行動をすることが嫌いなだけでなく、何故か嫌悪感を感じていました。

半面、人から気に入られなければならないという思いもあるので、周りに合わせながらも、無理をして周囲を喜ばせようと必死でした。

そんな状態に絶望して、もう死にたいと何度も思いました。

自分には生きる価値なんてないし、自分はこの先幸せになることはないだろうと思ったのです。

なぜなら、全て身から出た錆で、自分という存在そのものが自分を苦しめていると悟ったからです。

本当は自分の好きなことを夢中でやりたかったし、好きな人と時間を過ごしたかったし、色んな体験をしてみたかった。

けれど、過ぎてしまった時間は戻らない。

未来が期待できるようなものにならないなら、もう生きる意味がない。

辛すぎる日々を生きていく意味がどこにある?

望みをかなえるために私たちは生きているのではないのか?

望みが叶わずに、苦しい日々を過ごすくらいなら、もういっそ命を絶ってもいいじゃないか?

なぜ、躊躇するのだろう?

なぜ、死にたいと願いながら、死ぬことができないのだろう?

何が自分を生かしているのだろう?

それはこのまま死んだら自分は必ず後悔をするという確信があるからだ。

けれど、生きている理由が後悔だというのなら、そこには大きな矛盾がある。

生きているから後悔が生まれるのだから、死ねば後悔することがなくなる。

けれど、死んだら後悔を消すことも、どうすることもできないから死にたくないと思う。

つまり、この状況打開するには後悔しないように生きるか、後悔しながらも生き続けることしかない。

生きるという選択をすると必然的にあきらめる必要が出てくる。

成功することをあきらめる、今追いかけている夢をあきらめる、結婚をあきらめる・・・沢山のあきらめることがあります。

諦めたら苦しい、それはもう手に入らないのだから。

だから諦めずに可能性の中に生きてしまう。

しかし、可能性の中に生きている限り決してそれは手に入らない。

だからこそ私たちは「選択」をしなければならない。

何を大切にして、何を諦めるのか。

それを続けることが生きるということに繋がって行くと思います。

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